国宝 犬山城




天気が良かったので、国宝犬山城へ。

名称:国宝 犬山城
通称:白帝城
立地:平山城
天守構造:望楼型・三層四階地下二階・複合式天守
天守の高さ:約19m
築城年:天文6年(1537)
築城者:織田信康(織田信長の叔父)
廃城年:明治4年(1871)
指定文化財:国宝(天守)
主な城主:織田氏・池田氏・石川氏・成瀬氏
所在地:愛知県犬山市犬山北古券65-2
犬山城は、室町時代、天文6年(1537)頃に、織田信長の叔父織田与次郎信康が、木之下城から移して創建。木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固(うしろけんご)の城」で、以後、中仙道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として、以後戦国時代の攻防の要となる。信康が天文13年(1539)の稲葉城攻めで討死すると、信康の子信清が城主となった。信清は信長の従兄弟にあたるが、次第に不和となり美濃の斉藤龍興と手を結んだことから、信長の軍勢(丹羽長秀)に攻め込まれ降伏。信清は甲州に落ち延びたという。これにより信長の尾張統一が成り、占領後信長は丹羽長秀を城番とし、伊木山に砦を築き、ここを拠点に永禄8年(1565)より対岸の鵜沼城攻略に端を発する一連の美濃侵攻戦を開始する。永禄3年(1560)、桶狭間の戦いにおいて今川義元を討ち取った信長は、美濃攻めに力を注ぐ。とはいえ、斉藤義龍の元結束した美濃勢の攻略は容易には進ます、一進一退といったところであった。ところが、道三をも凌ぐといわれた名将義龍が、翌永禄4年に病のため亡くなってしまい、斉藤家を相続したのが、若干14歳の龍興であったことから、次第に斉藤氏の結束は瓦解していった。こうした斉藤家の内紛に乗じ、信長はかねてから行なっていた西美濃方面からの攻略ではなく、中濃攻略戦を開始することになる。永禄8年(1565)、信長は美濃の斉藤龍興と結んで抗していた犬山城主織田信清を攻略することで中濃への侵攻を開始する。すでに小牧山城へ本拠を移しており、信長はこの時点で尾張全体を完全に統一すると同時に、美濃攻めを開始したのである。


樅の丸




廻縁 

 建物の周囲を廻る板敷きのことであり、犬山城の最上階に設けられている。

松山城や丸岡城のように見せかけだけで実際には外に出られない例もあるが、
犬山城は外に出られ遠望を楽しめる。
天正10年(1582)「本能寺の変」で織田信長が倒れて後継者争いで世の中は乱れ、天正12年(1584)に秀吉対徳川家康・織田信長の次男信雄との間で「小牧・長久手の戦い」がはじまりまる。当時の犬山城主は織田信雄の家臣中川定成だったが伊勢へいって不在であり、池田恒興が木曽川をわたり城内に侵入し、落城しました。後に秀吉が入城。以後小牧山城に陣を構えた家康とにらみあいが続いたが、両者の間で和が結ばれ、犬山城は織田信雄に返還される。その後、犬山城主はめまぐるしく変わり、文禄4年(1595)秀吉の家臣石川光吉が城主に、慶長5年(1600)、関が原の合戦後、家康側の小笠原吉次が入城。江戸時代に入り、元和3年(1617)尾張徳川家の重臣成瀬正成(なるせまさなり)が拝領。このとき改良が加えられ、現在の天守の姿ができたといわれている。以後、成瀬家が幕末まで城主を務める。明治4年(1871)廃藩置県で愛知県の所有となり、天守以外のほとんどの建物が取り壊される。明治24年(1891)、マグニチュード8.4の「濃尾大地震」によって天守が半壊するという大きな被害に会う。そのため、同28年に修理を条件として県から旧藩主の成瀬家に譲与され、成瀬家と犬山町民が義援金を募り、無事修復。昭和10年(1935)国宝に指定。他の国宝城、彦根城、姫路城、松本城の中では最も古い城である。

以下天守閣からの眺め。



東側、左奥に見える雪山は御嶽山。

南東側

南側

西側、左に見える山が伊木山。



築城から成瀬家所有までの城主。


金持ち~って感じ。

平成16年4月、財団法人 犬山城白帝文庫が設定され、財団法人所有となる。
樹齢650年。天守閣と同じくらいの高さがあり、落雷から城を守った御神木。
台風時は風よけとなった。しかし、なぜか1965年頃枯れてしまった。
伊勢湾台風が原因だろうか・・・


三光稲荷神社。創建は明らかでないが、天正14年(1586)の伝承があり。
犬山城内三狐寺山に鎮座せられ(現在の丸の内緑地公園内)、
古きより織田信長の叔父織田信康公の崇敬殊に厚く、
また犬山城主成瀬家歴代の守護神として天下泰平、
五穀豊穣、商売繁盛、交通安全の祈願を籠め数々の神宝を寄進される。
現在の地には、昭和39年10月に移築奉り、
大神様のお陰をもち福徳、開運厄除、
所願成就の御神徳を仰ぎ近隣をはじめ全国からの参拝客で賑わう。




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