馬籠宿(まごめしゅく)

妻と久しぶりに出かけた場所は
馬籠宿・妻籠宿・昼神温泉である。
今回訪れた馬籠宿・妻籠宿は中山道沿いの宿場である。
EOS 50DにEF24-105mm F4L IS USMを付けて向かった。

慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康は、
翌年東海道の整備を手始めに順次交通網の整備に着手し、
幕府が管轄する道路を定めこれらの道路には多くの宿駅を定めた。
 中山道は本州の中部山岳地帯を縦断し、木曽を通っていたことから
別名を「木曽路」とも「木曽街道」とも呼ばれていた。
 始めは《中仙道》 と書かれていたが、享保元年(1716)に、
「東の海沿いの道を東海道というように、
本州の中央を通る道だから《中山道》と書き改めるべきである」
として、以後《中山道》と書かれるようになった。
しかし《なかせんどう》と読まれた。

中山道(なかせんどう)は江戸日本橋を起点とし、
京都まで約530kmの道路で、
ここには69箇所の宿場がおかれていた。
東海道の504kmに比べ遠回りではあったが、
東海道には大井川の川止めをはじめ、
海の旅や川越などの危険が伴った。


中山道69宿のうち木曽には11の宿場があり、
馬籠宿は板橋を1番目とすると43番目になり、
江戸からの距離は332kmになる。
道路が南北に貫通しているが急な山の尾根に沿っているため、
急斜面で、その両側に石垣を築いては屋敷を造る
「坂のある宿場」である。
山の尾根のため水に恵まれておらず、火災が多い。
1里は約4kmである。

明治新政府の発足により宿場の機能は相次いで廃止された。
1882年(明治25年)中山道に変わって
木曽川沿いに国道が開設され、さらに1912年(明治45年)
国鉄中央線が全線開通したことにより、
馬籠、妻籠は全く人通りが絶え、両村は陸の孤島化し、
村の経済は急速に寂れていった。長い間の貧困生活のなかで、
外部からの刺激もないまま江戸時代そのままの生活を続けてきた両村が、
観光地として脚光を浴びだしたのは
日本が高度経済成長期に入った頃からである。


連休だからか、やたらと観光客が多く、
情緒も何もあったもんじゃない。

馬籠は島崎藤村の生地として、
藤村記念館を訪れる人が飛躍的に増加するようになった。
観光客の入り込み数が増加すれば当然これを受け入れるための、
宿泊施設や食堂、土産店が出現し、
労働力の需要も増加し地域が活気を呈してきた。
このため1967(昭和42年)、
馬籠観光協会が発足し組織的な活動を開始するようになった。
一般に開発のないところに保存の必要はなく、
破壊がなければ保存の手だてもいらない。
馬籠という「良好な自然環境」を
観光資源としている観光地にとって、
環境破壊や俗化は命取りだった。
しかし受け入れ態勢を急いだ結果、
1970年(昭和45年)頃から馬籠は俗化が急速に進行しはじめた。



晩年の藤村像

馬籠の町並みの外側に移設された電柱。

馬籠宿の町並みの景観整備については保存委員会の努力により、
建物の俗化は一応防げたが、
宿場内の景観そのものを美化するまでには至らなかった。
このため1978年(昭和53年)から2年がかりで
街道の修景美化をすることが計画された。
美化計画では道路沿いにある電柱の撤去から着手することとなった。
当時街道筋には電柱26本があり、
ここから軒先にかけて電線・電話線がクモの巣のように張り巡らされていた。
このため、町並みの両裏に約250万円をかけて電柱を移転し、
引き込み線も各戸の裏側から配線した。
街道から見えるテレビアンテナや
自動販売機にも配慮が加えられた。


心を起そうと思わば、まず身を起こせ




一部工事中の一角があり、またまた情緒に欠ける。

馬籠の町並み自体はそれほど長くないが、
南の馬籠館から南側と、
北の高札場から北側はかなり遠いので注意。
このまま妻籠宿まで歩いてみよう!とは軽々しく思わない方が良い。

馬籠の町並みをさらに南下すると正岡子規の句碑がある。
ただし、ここまでの道のりは遠く、
歩くのはお勧めしない。
車でも5分はかかるので注意。

この景色を見て、正岡子規は以下の句を詠んだ。
桑の実の木曽路出づれば穂麦かな


正岡子規の句碑をさらに進むと、一里塚がある。
幕府が街道を整備するとき、一里(4km)ごとに道の両側に
土を盛った塚を築いて旅の行程や駄賃・運賃の目安とした。
塚の上には榎や松の木を植えてその目印にした。
 現在馬籠宿と落合宿の境にこの1基が残っている。
中山道では唯一の遺跡である。

中山道は続く。


コメント

人気の投稿